2016年02月13日

Episode5 景教との出会い

 我が大和の国、日本の歴史は、有史以前より四海に囲まれ、東西南北各方面より渡来した様々なる諸民族によって多岐に渡りその影響を被り、育くまれ、独自の民族性を形成してきました。

 長い日本史の所々に次の時代へと繋がりの深いエポックが点在するのも見逃せません。

 その数あるエポック・メイクの一つとして以下に展開する「学説」の真偽はともあれ、興味あるお話を一つ。

 まず「景教」と言う宗教をご存知でしょうか。景教とは、キリスト教の一派、ネストリウス派の事である。これは五大司教座(ローマ・コンスタンチノープル・アレキサンドリア・エルサレム・アンティオキア)のひとつ、コンスタンナノーブル司教座の総大司教・ネストリウス(?〜451年)に始まり431年、ギリシャのエフェソスで開かれた宗教会議で異端とされ追放された一派だった。彼らは当時の教会で広く用いられていたイエスの母、マリアに対する呼称「テオ・トコス」(神の母の意)を斥け「クリスト・トコス」(キリストの母の意)と言う呼称を唱え、更にキリストの神性と人性を分離するという神学を主張。この特殊性ゆえに異端とされたのである。 

 西方世界を追放されて後、ネストリウス派は東方へ伝播し、635年、ペルシア人景教僧、阿羅本(あらほん)により、唐へ伝えられた。以後、唐では景教と呼ばれ中国に初めて伝わったキリスト教として大いに栄えた。長安には太秦寺(だいしんじ)と称する景教の聖堂が建ち、あまたの信者を抱かえていたといわれる。そうした唐代に於ける景教の隆盛ぶりを記録したのが781年に太秦寺境内に建立された「太秦景教流行中国碑」である。

 選者は景教僧・景浄であった。景浄は本名をアダムと言い、三十余りの景教教典を漢訳し、仏典の漢訳にも協力した。特に大乗教典「大乗理趣六波羅密多経」の漢訳で般若三蔵に助力したと言われている。両者は密な関係にあったわけである。だが、後に景浄の景教寄りの解釈の為、般若三蔵は離反した。在唐時の空海は、梵語の教授をこの般若三蔵と牟尼室利三蔵にも就学していた。

 先に挙げた「太秦景教流行中国碑」の事であるが、明治二十年代に仏教学者・高楠順次郎博士が唐代の編籑になる「貞元新定釈教目録」を発見し、碑文の選者が明らかに実在していた事に驚いて、パリの東洋学の専門誌に発表し、これが碑の真贋を決める確証の一つになった。

 ついでながら「太秦景教流行中国碑」に景浄の他に「及烈」と言う名の景教僧も出てくる。及烈については、大正初年、桑原隲蔵博士が「冊府元亀」という唐代の書物を検索している時、この碑文の中の名がこの碑の真物であることがいよいよまぎれもないことになった。囚に桑原博士の「ネストル教の僧及烈に関する逸事」(大正四年十一月「芸文)には、「及」の古音がgapで「烈」はlietであるため、及烈の胡音はGabriel(ガブリエル)であろうとしている。

 古代中国に入った景教徒達はコンスタンチノープルを追放されて後、シルクロードを経て約200年後の唐の時代にペルシャ人景教僧、阿羅本によって、齎された事は先述した通りである。

 それとは別にペルシャからインドに入り、インド東岸から海路で、中国沿岸にそって朝鮮を経由し、日本の比奈ノ浦(現在の兵庫県赤穂郡)に上陸した景教徒が秦氏と称して日本に仏教が渡来する以前に古代キリスト教の遺跡を残しているという。彼らは比奈ノ浦にダビデ(ユダヤ人のダビデ王。漢訳名は大闢(だいびゃく))の礼拝堂(のちの大避(おおさけ)神社)を建て、そばにいすらい井戸をつくった。(イスラエルの民の宗教生活の習慣として井戸を掘る)後に秦氏一族は比奈ノ浦を同族の聖なる地として神社ひとつを潰し、主力を山城(京都)に移して氏族の都を太秦の地に定めた。そこに大闢同神の社で、現在大酒神社となっており、太秦広隆寺の摂社として、今日に至るまで千数百年の社齢をけみしている。)を建てて、近くに地軸まで突き通しそうな深い井戸を掘った。それがやすらい井戸である。大正時代に来日したゴルドン夫人は比奈ノ浦と京都の太秦の遺跡を踏査した結果、秦氏がユダヤ人景教徒である、と断定している。ユダヤ人景教徒の血をひく夫人が、太秦広隆寺を建立した秦の河勝の木造を一目見るなり我々ユダヤ人にそっくりだ”と声を張り上げてさけんでいる。森陸彦氏の「ゴルドン夫人と日英文庫」(私案版・平成7年)によると、夫人はイングランドの名家ヘンリー家に生まれたという。貴族のゴルドン家に嫁ぎ、育児のかたわら、ヴィクトリア女王の女官を務め、更にオックスフォード大学に学び、三十五歳で卒業。キリスト教徒から仏教徒となり、真言宗の信者として死去。遺骨は高野山に自ら建てた景教碑の下に納められた。

 そして東京日比谷図書館の開館に尽力。夫人の募集した図書は、早稲田大学と高野山大学の図書館に所蔵されると、秦氏=ユダヤ人景教徒”説の研究が進むに違いない。ゴルドン夫人と親しかった早稲田大学教授で、景教研究の第一人者、佐伯好郎博士は、兵庫県赤穂の大避神社に伝わる胡正面の写真を見るや、即座に正しくユダヤ人の顔だ”とさけび、生涯を通して秦河勝がユダヤ人景教徒であるという説を主張しつづけた。これらの逸話は、日猶同祖論者たちの間で有名だという。(昭和五十九年八月一日、商工毎日新聞)既にお判りの様にいすらい井戸とやすらい井戸とは、流浪のユダヤ人景教徒が掘った井戸でいずれもイスラエルのもじりである。

 昭和24年、夏のある日、産経新聞社京都支局の宗教担当の記者であった若き日の司馬遼太郎は銭湯で一人の人物にあった。その紳士は、何者とも知れぬ司馬に「キリスト教を初めてもたらしたのは、聖フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年も前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の渡来よりも古かった。第二に渡来したザビエルが、なにをもってこれ程の祝福を受けねばならないか。

 その遺跡は京都の太秦にある。」と話してくれたと言う。その紳士はかつて、有名国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教”の遺跡について指示してくれたので、兵庫県の比奈ノ浦や京都の太秦の遺跡を踏査して、それに関する記事を書き、「すでに十三世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と締めくくった。その後、昼は新聞社で今日の「現実」を切り取る仕事をして、夜は想念が「現実」から抜け出して古代地図の上を逍遥し、「兜率天の巡礼」を書いたと言う。それ以前にも司馬作品として「ペルシャの幻術師」「戈壁(ごび)の匈奴(きょうび)」と言った、シルクロードやオアシスを背景にした歴史ロマンの短編を数多く執筆している。

 少年の頃からモンゴル系の遊牧、騎馬民族の匈奴、蝉蝉(ぜんぜん)などにひかれ、大阪外国語学校で蒙古語を学び、匈奴と関連のあるスキタイに興味を持ち、スキタイに影響を与えたペルシャ文化に対する感心を深めた。ペルシャの幻術は、拝火教(ゾロアスター教)の僧達が陶酔的なペルシャの音曲を奏で、幻賞症状を起こす大麻や催眠術を使い、様々な幻術を演じて、人々を信者にする為の妖術の類であった。拝火教はシルクロードを経て中国に入ると祅教(ようきょう)と呼ばれ、その僧たちが散楽雑技(音楽に合わせて演ずる幻術、奇術曲芸など)を行った。散楽雑技は日本にもたらされて、クグツ(傀儡子とも呼ばれ狩猟、漁、人形まわし、幻術、奇術などを生業とする漂白民)、山伏(修験者)、忍者に伝承された。

 忍術の開祖ともいわれる役の行者は葛城山のふもとで生まれ育ち、呪術者の一族の彼は、まじない、占い等の土俗的な呪術にすぐれていた。外来の雑密の呪法にも通じ、特に孔雀明王の呪法に長じていた。孔雀は毒蛇や毒草さえ食べてしまう悪食の鳥なので、古代インドの波羅門(ばらもん)(四つのカースト階級中で最高の僧侶)はそのすざましい消化力に超能力を感じて、偶像化し、神と崇めた。

 孔雀明王像と呪法はシルクロードを経て山辺の道を通って大和に入っていた。役行者はそれと我国の古神道の土俗的な呪術を混合して験力を強め、ついに修験道の開祖とされるに至った。

 空海は、役行者が習合した占い、まじない等の土俗的な呪術と孔雀明王の呪法(雑密)を体系化し、更に孔雀明王を大日如来(太陽、昆虫、鹿など、宇宙にあまねく満ち満ちている超越者であるとされている)の化身として昇華させ、純粋密教の僧侶によって病気平癒、安産祈願など加持祈祷で活用された。

 孔雀明王の呪法が山辺道もしくは、大道を経て、大陸から大和へもたらされた頃、それと前後して散楽雑技は同じコースを通って大和に伝来していた。

 その双方が習合されたのか、或いは習合されないで密教僧、山伏、歩き巫女、クグツ、幻術師たちに伝承されたのかは判らない。

 余談ながら、ゴルドン夫人は秦氏が景教徒であったという説をたてているが、要するに秦氏は迷の一族なのである。だが、海音寺湖五郎、司馬遼太郎、いずれも指摘していないのは、散楽雑技を中国から日本にもたらしたのが秦氏であったと言うことである。

 ハタはペルシャ語ではるばる来た”という遠来の民族の事だと言う。そして応神帝の時代に散楽雑技を得意とするペルシャ系の放浪民族が紛れ込んでいる移民たちを統率して日本に渡来したという説がある。ペルシャの幻術や奇術を演じる放浪民族たちとその後商は、クグツの集団に入って散楽雑技を演じながら、各地を漂泊したのではないかと思われる。

 以上、今回のEpisode5を校正する要素(キーワード)は「太秦景教流行中国碑」の存在に始まり、ユダヤ人景教徒による日本に於ける遺跡。しかも今日全国に寺社仏閣の総数は、日本の全コンビニエンスストアーの数に比較しても決してヒケを採らぬ程、無数と言ってもおかしくない。我国に壮絶大なる影響を与えた仏教伝来以前にすでに古代キリスト教の一派が古代渡来人として漂着し、京都太秦を拠点に技術、技能、文化等の根本要素を日本の伝統文化に影響をにじませていたという事がまさに驚嘆に値するのである。

 次回のEpisode6では、いよいよ「空海の思想」についてその一端に深掘りを進めたいと考えています。ご期待の程。

◆参考資料

学研版「空海とヨガ密教」小林良彰 著

文春文庫「ペルシャの幻術師」 司馬遼太郎 著

講談社文庫「風の武士(下)」 司馬遼太郎 著

両文庫・解説・磯貝勝太郎(文芸評論家)


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この碑の下にゴルドン夫人の遺骨が眠っている。

(和歌山県高野山)

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秦氏のルーツを辿る先祖の系譜が記されている「由緒書」

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大酒神社境内にある井戸

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京都太秦・広隆寺・正門(山門)

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posted by cafesta at 14:47| Comment(0) | ★Episode5 景教との出会い